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熟茶成立の秘密__1

 普洱茶の事を調べているといつも中国の歴史につきあたる。熟茶もその例外ではないし、もっともその影響を受けた茶だとも思う。大きな国の戦争は、日本ともまた大きく違う。一斉に勝利したり、敗北したりと言うほど簡単ではないのだ。日本軍や諸外国、国民党政権、共産党と言うふうに国が三つにわかれていた時代もあり、1949年に「中華人民共和国」に統一されるまでには各地で時差があり、お茶に関して国の体裁が整うのはそれからまだ10年近く待たなければならない。
 1940年以前の中国で最初の茶葉交換市場の出来た広州は、100年の間諸外国への輸出の大部分をにない、雲南省の茶葉の殆どはまず広州に運ばれた。
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 当時香港、澳門、広州の茶商たちは共同体で、支店、親族など殆どの茶商がいずれの場所にも関係を持っていたと言う。1949年にその関係が絶たれ、広東省は澳門、香港と切り離される。困ったのは茶商たちばかりではない。世界中のお茶を求める人々にとっても大変な時代になったのだ。特に黒茶が必需品である、チベットや東南アジアに住む人々にとってお茶は欠かせない物だから。今まで一つにまとまっていた黒茶の生産地は3ヶ所に分かれる事になった。
  雲南の同興号、同慶号などの茶厰たちが戦禍を逃れ、茶葉と共にその技術を携えて着た澳門、香港。長い年月の間茶葉取引の中心だった広東省広州。そして新しく出来た「中華人民共和国」では茶の国営企業が雲南省に五つ置かれる。黒茶(普洱茶)生産は「勐海茶厰」「下関茶厰」「昆明茶厰」の三社がになう事になった。
 考えて見ればその三ヶ所でそれぞれの「熟茶」が誕生したのは必然の成り行きだったのだろう。
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 もう一つの背景は消費地にある。戦前雲南省から広州までの道は整備されていなかったから、早くても2、3ヶ月、殆どの茶葉は半年以上掛かって運ばれて来たと言う。春から夏に雲南省の少数民族に摘まれた茶葉は、秋から冬に茶問屋に集められ晒青緑茶のまま分類され、あるいは生普洱茶に加工され、次の春から秋にかけて運ばれて来た。太陽にあたり、温湿度の違いをくぐり抜けて広州に着いた茶葉は、新茶特有の苦味がとれて円やかな味になっていたと言う。広州も温度も高く湿度の多い場所だから、そこで保管されて各地に送られた茶葉が消費者の手に渡るまでには、茶摘みされてから少なくても二年は掛かったのだろう。それらの茶はとても美味しいと評判が良かった。
 1949年以降も雲南省の茶葉の輸出の殆どを広州が独占していたが、戦前のお茶とは味が違っていた。外貨の欲しかった50年代初頭、摘み取られた茶の殆どは即座に晒青緑茶にされ、そのまま広州に運ばれていた。雲南省からは茶の保存方法や製造技術を持つ茶厰たちが居なくなっていたし、国営企業は茶のすべてについてまだ手さぐりの時代だったのだと思う。
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by natch551 | 2016-05-22 20:12 | 普洱茶
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